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2012年06月13日

青梅往還。



今更だが、

青梅街道のことである。



江戸初期に整備された道で、

お江戸から西に向かうと新宿で甲州街道と青梅街道に分かれる。



お江戸から甲斐まで行く場合、

甲州街道より二里短く関所が無かった為、

その当時もそれなりに賑わっていたようだ。

甲州裏街道などとも呼ばれていたそうである。





現在でも山帰りに中央高速の渋滞が凄まじい時などは、

私は勝沼ICで高速を降り青梅街道で帰宅することが多い。

メイン(中央道)の裏道としての立場は未だに現役なのかも知れない。





先週末は青梅街道の奥のほうを徘徊してきたので、

その辺りの話をしてみようと思う。

有名な話が多いので特に新鮮でもないのだが。





■大菩薩峠と柳沢峠


明治になるまで青梅街道は現在とルートが違った。


今の地名で言えば、

青梅街道を深山橋で左折し国道139号で小菅村まで行き、

小菅村役場の横を突っ切り県道508号をどん詰まりまで行った後、

登山道で大菩薩峠を越え、裂石に至る。





こんな感じだろうか。

このルートであれば、

上記に書いた『甲州街道より二里短く』というフレーズも分かる。





当時の大菩薩峠は、

現在の賽の河原付近だったらしく、

大菩薩峠の東側、フルコンバには今も賽の河原への踏み跡があるらしい。


青梅往還。



フルコンバには一度しか行ったことがないので気付かなかったが。

次に行った時には観察してこようと思う。





以前のルートから現在のルートに変わったのは、

明治の初めに青梅街道を車道(馬車道)にする時である。

大菩薩峠を車道化するのは困難であったので柳沢峠越えのルートが作られた。








こんな理由で街道のルートが変わるのは良くあったことのようで、

甲州街道も車道化の折に小仏峠から大垂水峠越えへ変更になっている。








初めて柳沢峠から山歩きをした時は、

ここも歴史深い峠なんだろうなぁ、と妄想したのだが、

意外にもわりと新しい峠だと知った時はビックリしたものだ。





余談だが、、、

六本木峠~丸川峠にある謎?の峠、

寺尾峠と天庭峠は御料局時代の駄馬道だったそうだ。


青梅往還。



道標脇の広い廃道っぽい雰囲気はまさにそれだったようだ。







■黒川金山


ココ数年、気になっていたが、

先週末にようやく行くことができた。


とりあえず、Wikiから沿革を抜粋する。

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15世紀までは、黒川は霊場として山伏や修験者などが滞在し、

小規模な砂金採掘が行なわれていた。

遅くとも16世紀前半には本格的な金の採掘が始まっており、

専門の職人集団としての金山衆を記した文書も多く存在する。

16世紀中期より黒川金山は最盛期を迎え、

黒川千軒と呼ばれる密集した家屋が建ち並び、

人口は1,000人前後まで増加して鉱山町が成立していた。

武田氏の滅亡後は徳川家康の保護を得て、

天正11年4月21日には金山衆に武田氏時代の特権が追認されている。

17世紀初頭には人口が再び増加し、慶長・元和年間の黒川金山や周辺鉱山を含めた、

甲斐において国幕府が直営する鉱山の金産出量は100貫前後に上り、

佐渡金山の金産出量と匹敵する。

元禄年間には黒川金山は閉山したと推測されている。
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あの山奥に1000人が住む町があったとは驚きだ。


しかしながら、、、

ちょろっと歩いただけでも、

たくさんの石組の跡があったので、なるほどという気がしなくもない。


青梅往還。





少し話は変わるが、

心霊スポット巡りなんぞをしたことはあるだろうか。



私が高校&大学の時も、

夏の夜に仲間が集まるとたまにそんなところへ出かけたものだ。


廃業した病院や“出る”と言われている墓地、、、

今となっては何を好き好んでと思うのだが当時は楽しかったのだろう。



そんな心霊スポットの一つにおいらん淵があった。






ここは、、、

『まぢで出る。』

とか、

『ホントにヤヴァイ。』

なんて言われていたが、

当時はちょっと冷やかしに行くには遠すぎて行く事はなかった。





このおいらん淵というのが黒川金山に関係していて、、、

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武田氏滅亡の時に、

金山の秘密が漏れることを危惧した関係者が、

鉱山労働者の相手をするため遊廓にいた55人の遊女を皆殺しにした。
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という伝承が元になってつけられた地名だと言われていて、

その伝承ゆえに心霊スポットにされてしまったのだろう。





山に登る今となっては、

夜が明ける前、日が沈んだ後、

などのナニな時間帯にこの辺りを通ることは多いが、

これといって何てコトはない。





そもそも、、、


・遊廓が存在していたことを実証する考古遺物は発見されていない。

・金山衆は武田氏の滅亡後も、
 徳川家康の保護を得て武田氏時代の特権が追認されている。

・もし秘密があったとしても、
 遊女だけ殺しても秘密が守れるとは思えない。

・戦国時代に遊女を指す「おいらん」という単語は無かった。


こんな感じであるので、その伝承自体がアレだったりする。



しかしまぁ、、、

ガキの時に耳にした場所に、

ヲッサンになってから別の理由で行くことになるから面白いものだ。







以前にも少し書いたが、私には昔から馴染みがある青梅街道。



山に温泉にわさび漬けに、、、

これからも末永くお付き合いが続くことだろう。









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この記事へのコメント
工場長様、こんばんは。

またまた私のために済みません。
青梅街道、全部歩きたいと思っています。(この記事の趣旨と違いますが)
いま、お祭りまでです。
甲州街道も歩き通したいな・・・・どんな歴史なんだろう、誰か調べて
くれないかな・・・

酒ばっかりのMでした。
失礼しました。
Posted by million泥酔寸前 at 2012年06月14日 00:21
millionさん。ちわッス!!

>またまた私のために済みません。
いえいえ。
イインデスのよ。
料金のほうは別途で。
ああはい。いつもの口座でOKです。

>青梅街道、全部歩きたいと思っています。
おお。
すげぇですね。
そういえば誰か、、、
多摩川を全部歩こうとしていた方も居たなぁ。
同じぐらいの長さですかねぇ。

>酒ばっかりのMでした。
俺も昨日は同じ時間に泥酔寸前でした。。。
Posted by 工場長@職場 at 2012年06月14日 08:55
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